デュフィと木版画

 1908年セザンヌの影響下のデュフィの絵画芸術は、彼の作品を扱っていた画商たちに、見放なされ、作品が売れなくなっていた。
ある画商はデュフイの買い手を探せなくなりフォーブの絵画に戻るようにデュフイを説得したが、無駄であった。デュフィは断固として自分の道を歩んで、応用芸術の分野での新しい探求を並行して試みていく。
 画商からデュフィにあてた手紙*を読んでみると、デュフィが、フォービズムを越えて新しいことへと挑戦していこうとしている、頑な態度が伺える。
*ベルト・ヴェイルの署名のある1908年4月9日付の未発表書蘭を参照→(あなたは愛好家から高く評価された資質を持っていたのに、物事をむずかしくしようとしています。どうして今まで通りはいけないのですか。あなたは自分がしたいと思っていることを理屈をつけすぎます。気質は与えられるもので、理屈をつけるべきものではありません。そうすればかならず間違いをおこします。もう少しお金になるように努力して、しっかり働きなさい。やる気を起こすことが絶対に必要です。考え込んでばかりではいけません。あなたの消息を聞いてくる人がいます。私はあなたが、たくさんのことを抱え込んでいて、まだ作品は、何も仕上がっていないと答えています。みんな待っています。)
 デュフィは1906年、サロン・ドートンヌのゴーギャンの回顧展でゴーギャンの驚くべき力と様式化による木彫、黒と白の力強いコントラスを持った木版画そしてセラミック作品を発見した。デュフィはこれらにかなりの影響を受けその後、木版画やセラミック作品を作成することになる。

 デュフィは1907年に初めて木版画に着手した。友人のフェルナン・フルーレ*(詩人)「古着」のために小さな挿絵を何点か彫っていた。当時、わずかな値段の小冊子を引き受けようとした出版社はひとつもなかった。そして、15年後にやっと出版されることになる。

 デュフィは文学作品の挿絵の分野での活動はフルーレのおかげだと告白している。→「私は本の趣味を本能的に持ち続けていたが、そうした本への愛着理由と自分の作品および私にとっての重要性があることを理解できたのはフェルナン・フルーレとの交友と友情のおかげだった」
*フルーレは、デュフィの没後、エロージュ・デュフィ(Eloge de Raoul Dufy)を出版している。その中でフルーレは次のように回想している。(私たちはプロヴァンスに住んでいた、そこで君は毎朝30枚のデッサンを描いていた。どれもファンゴッホに比べて遜色はなかった。私はノルマンディーを懐かしむことと未来の深淵を思いわずらうことしかできなかった。)→作品紹介


 1910年デュフィは4点の版画を制作する。この版画において、濃密な黒と輝きのある白のバランスの取れた配分によって空間を規定するとともに、その黒と白の切抜きを用いて「ダンス」「愛」「狩り」「釣り」の人物の体と姿勢を明確にしようとした。→作品紹介
 この4作品と動物詩集のためのタイトルページを1910年のサロン・デ・アンデパンダンに展示した。フルーレはこれを批評していたアポリネールにこの版画のある種のアルカイスム強調するとともにデュフィの独創性について力説した。


 
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